藁にもすがる思いは必要ない
もくじ
溺れている時にもがくと沈む
本当に困っている時というのは、『藁にもすがる思い』で闇雲に動揺してしまうものです。
溺れている時にもがくと沈んでしまうように、どうにもならない時にもがくと心が沈んできます。
最終的には、私のように心が折れ、「うつ病」という病気として心身に現れてしまいます。
私は自己啓発本などもよく読むのですが、「背水の陣」で頑張れというものをたまに目にします。
ですが、読んで字の如く背水であれば突き飛ばされた瞬間、水の中に落ちてしまうのです。
そうなってしまえば、先ほど述べたとおり、無駄に足掻かないことです。
わざわざ背水の陣を作る人の気が知れません。ギャンブラーに近いと思います。
背水の陣になる前に石橋でもなんでも作って溺れるリスクヘッジをしたほうがいいです。
これは自説ですが、一度うつ病になってしまうと自律神経に支障をきたすのか、ふとしたタイミングで動悸や体の震え、極度の緊張状態になってしまうこともあります。
そうなっては、正常の判断などできない。常に水の中で水を飲みながら息継ぎして、あれこれ考えろと言われている気分になります。
そんな状態の一歩手前まで自ら持っていくというのは、やはりよくわかりません。
要するに、病気になりたくなければ溺れた時にもがくな、ということです。
大きな決断は溺れている時にはしない
先ほどの話に続きますが、水を飲みつつ息継ぎしつつ、なんとか酸素を求めて荒い呼吸をしている時に正常な判断ができるでしょうか。
身体的な話であれば、すぐにわかると思いますが、精神的なものだとわけが違います。
身体は正常なのですから、「大丈夫。まだできる。』と勘違いするのです。
大抵は、心が溺れて沈んでいった時に身体に現れて、しでかしたことの重大さに気がつくのです。
決断に無難は無い
そもそも、少しでも今後の人生を左右するような選択に無難というものは無いのです。
無我夢中で誤った選択をすると、その時点では気が楽になります。
『大丈夫。まだできる。』の感覚です。
冷静に俯瞰して、心情を見ることができるのであれば自らが溺れていることに気がつけることもあるはずなのですが。
やはり、『大丈夫。まだできる。』を瞬間的に欲しくなってしまうのも人間です。
掴んだ藁には大抵毒がある
なんとか目の前の選択を選ぼうと、目の前の藁にすがる。
冷静になれば、なんの役にも立たないとわかっているはずの藁にもすがる。
この藁の怖いところは、おおよその確率で毒があります。
後々になって、その遅効性の毒は人間性を蝕んでいきます。
あの時、ただ溺れていればまだマシだったのにと思うくらいに苦しい思いをすることになります。
泣きっ面に蜂、というやつですね。
助けてくれる人を溺れさせない
やはり、身体的に考えるとわかりやすいので、引き続き溺れている自分を想定して話を進めます。
客観的に自分のことを見てくれている人はいます。手を差し伸べて助けてくれています。
溺れかけてすぐなのであれば、周りにSOSの信号を出すこともできるかもしれません。
そうやって、誰かが助けてくれたとして、どうすれば救助されやすいのかわかりますか?
もがかない、暴れない、すがりつかないことです。
力を抜いてぷかぷか浮いているほうが助けやすい。
下手に暴れると、助けに来てくれた人を道連れに溺れさせてしまうことだってあります。
また、前述したことですが、毒の藁をつかんだ後に助けてもらっては、助けてくれた人に傷を残すことだってあります。
人の善意を踏みにじるようなことって、案外とっさの判断でしてしまったりするものです。
力を抜くことが一番難しい
助けてもらうためにも、溺れないようにするためにも力を抜くことが一番大切だと言いましたが、一番難しいのも確かです。
私自身、力を抜くことができず、溺れた身ですからなんとも言えません。
ですが、今言えることは、溺れている現状を俯瞰してSOSを発信し、力を抜いたほうが
ずっとずっと楽だったはず、と思っているということです。
もし、身の回りの人で助けが必要だと思う方がいれば、むやみに足掻かず力を抜くことを助けてあげてください。
無理に助けようとすれば、あなたも溺れます。
溺れている人の『大丈夫。まだできる。』の魔法は簡単には解けないのです。